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悪童日記

アゴタ・クリストフ(著)/堀茂樹 (訳)の悪童日記(電子書籍)

悪童日記 【電子書籍】

著者 ページ数 クチコミ評判
アゴタ・クリストフ(著)/堀茂樹 (訳) 301ページ ★★★★☆

アゴタ・クリストフが描く傑作小説シリーズ第一弾

悪童日記』は、幼少期を第二次大戦の戦禍ですごし、母国ハンガリーから西側に亡命した『アゴタ・クリストフ』の処女小説で1986年に刊行された三部作の第一弾にあたる作品。2014年10月3日から日本でも映画が公開されている旬な作品。

悪童日記のストーリー展開は独特だ。それは、本作の主人公である「ぼくら」の視点で描かれた日記(作文)形式で物語が進むからだ。この作品の主人公「ぼくら」は幼い双子の兄弟で戦争が激化し大都市から田舎の祖母の元に疎開するところから物語は始まる。

徹底的に曖昧な描写を排除し作文を綴る『ぼくら』。彼らはお互いの日記について「良」・「不可」を採点し、曖昧な感情表現があるものは不可とし廃棄、そして不可の場合そのお題について書きなおさなければならい。例えば自分たちに優しく接してくれた外国軍人の従卒に対しては自分たちには優しく接してくれた、しかし見えないところで本当は優しくない人かもしれない。だからこの従卒を優しい人と表現するのは『不可』で、○○からは優しい人といわれているは『可』など自己の感情・感想は徹底的に排除される。万事がこのような形で作文として綴られ、ストーリーは進む。

この感情の排除、それは自ら感情をなくしていく、無くさなければ生きていけないぼくらの唯一の生存方法であったのだと推察される。この作文の書き方以外にもあらゆる痛みを克服するために幼い兄弟は互いを傷つけあう。

お互いの体を打ち合い痛いと思わなくなるまで何度も何度も互いの体を打ち合ったり、街で受ける差別を克服するために精神的に強くなるためと称しお互いの事を何度も罵り何も感じなくなるまで罵声を浴びせあう。さらに愛する母の言葉

「私の愛しい子!最愛の子!私の秘蔵っ子!私の大切な、可愛い赤ちゃん!」
これらの言葉を思い出すと、ぼくらの目に涙があふれる。これらの言葉を、ぼくらは忘れなければならない。


なんとも切ないシーンである。この母の言葉を思い出すと心が疼くので、その愛情からくる弱さを克服するために幼い双子は母の愛情ある言葉がただの言葉として意味がなさなくなるまでその言葉を言い合い陳腐化させるなど、一種の怪物が生まれ育っていく過程を目撃しているようだ。

この何十もの作文からなる『悪童日記』は、感情を排除したその不気味さから倫理観に問われるようなこともただの記録として描かれる。強烈な描写の1つとして隣人の少女「兎っ子」が自ら獣姦している現場をぼくらが目撃する。しかし「ぼくら」には何が起こっているのか理解しているのかしていないのか、わからないが淡々と事実だけ描写され記録されていく。これらの記録はエログロの世界とは違った角度の薄暗さを読み手に与えるのではないだろうか。

作品を通して「ぼくら」からは、子供特有の虫などを平気で殺してしまう「残酷さ」と子供だから持つ「純粋さ」が常に垣間見られる。しかしこの純粋さは、子供のそれを表現する無邪気とは少し違うものだ。

この「ぼくら」がもつ純粋さは、時に容易に人をも殺めてしまう。しかもそれが良かれと思い行動しているふうなのだ。隣人が家に火を放って殺してくれと言われれば、ぼくらは「熱くて苦しみますけど良いですか?」「必ずお役にたちます」と純粋さとこれから起こるであろう残酷さを踏まえて淡々と行動する。

別室で同居しているパラフィリアの将校が血迷って同僚(愛人)に引き金を引いて私を殺せと叫ぶも、その同僚(愛人)は「やってやる」と言いつつも引き金を引くことができない。その騒ぎを聞きつけたぼくらは「もし、それほどお望みであればお役にたちます」と引き金を代わりに引くことを申し出る。

本作の題名は悪童日記となっているが、この題名には賛否あることだろう。正直のこの双子を見て悪童とは思わない。感情を自ら放棄していくが、ぼくらは知的で純粋で、時には良い子といったイメージを読み手に与える。彼らがある行動をするのはそう行動するのが当たり前の環境であって、だからこそ「人助け」も「人を殺める」ことも「モノを盗む」ことも鶏肉を食べるから鶏を絞めるような、当たり前なこととして行動しているに過ぎない。だが、導き出される結果の多くは悪童そのものなで、一回りして悪童日記という題名は適切のかもしれない。

また見どころの1つとして大人たちの感情が鮮烈に表現されている。子供たちの感情を排除することで、本来情緒豊かな子供よりも大人達の心の動きが鮮明に映る。灰色がかった作風の中で大人の心の叫びは鮮明だ。ぼくらと長いこと暮らす「おばあちゃん」も魔女と呼ばれるだけあって相当に毒の強い人物だが、作品の盛り上げには不可欠な登場人物だろう。「ぼくら」の心を感じられる数少ない描写として、なんだかんだ言いつつもおばあちゃんの今わの際の後事を託すシーンがあげられる。基本的に他人の生に対してたんぱくな反応を見せる「ぼくら」も「おばあちゃん」に対しては一定の執着を見せる。また「ぼくら」には、司祭館の女の件からもみてとれる通り彼らは彼らなりの道理というのがあることがわかる。この道理は実の父親に対しても向けられる。

作品の最後では、ぼくらは父を利用し「ぼくら」がそれぞれの「ぼく」になるところで次作『ふたりの証拠』につながる形でしめくくられる。互いが互いを必要とし学校の授業ですら離れ離れになることができない「ぼくら」にとっては一大決心である。「ぼくら」はどうなっていくの次作が気になって仕方がない。

なお本作は、現在世界20ヶ国語以上で翻訳されており、スイスのシラー賞をはじめアルベルト・モラヴィア賞やゴッドフリード・ケラー賞、SWR(南西ドイツ放送)ベストセラー、オーストリア・ヨーロッパ文学賞など様々な賞を世界的に受賞している。2011年には出身国であるハンガリーにてコシュート賞を受賞している。



3件のコメント

あああああ
1巻は本当に面白い2以降は蛇足感はあるね
まる
悪童日記はその後のふたりの証拠や第三の嘘につながりますが、この悪童日記だけで良かったと私ならレビューします
ぼくら
この日記視点はすごいです。一読の価値あり

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