悪童日記シリーズ完結編
『第三の嘘』は、アゴタ・クリストフの作品で『悪童日記』『ふたりの証拠』に続くシリーズ完結編です。
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この作品を読み、私のような「かんじやすくない」人間が感想を述べれば、「もやもや」感に支配されていると答えます。シリーズ最終作にあたる本作『第三の嘘』はストーリー構成が複雑で、ぼんやり眼をくばらせていると展開を追うのが難しく、気を抜くと混乱しそうになります。なんどページを戻って読み直す羽目になったことか・・・。
多くの描写を省きネタバレ的に「第三の嘘」をまとめるならば、主人公は「ぼくら」の話を書いた半身である二部の主人公「リュカ」の話を書いたクラウスと名乗るリュカ(このように書くとリュカの存在がわかりづらいですね・・・)が、これまでの人生をベースとして嘘を織り交ぜ作品を途中まで書きあげる。後に生き別れた双子のクラウスと対面する。また、ぼくらの別れが何によって起きたのか、そしてそれぞれの半生が描かれています。
本作について面白いか面白くないか、と問われれば面白いとは答えることでしょう。しかし私は手放しでは称賛できません。つまるところ、この三部作を1つの話として見るならば多くの話は劇中劇(正確には作中作)でした、そして本作にあたるストーリー部分に関しては実際はこんなことがあってモチーフにしたんだという押しつけ感が強い後付的作品であるからです。
1991年に発刊された本作『第三の嘘』ですが、すでに劇中劇という「オチ」は出し尽くされた感があり、悪童日記でモチーフとなった話の補足説明が色濃い作品です。しかしながら難解な構成を書き上げた手腕はやはり相当なものですし、物語そのもの、表現力には味わいがあり、悪童日記を読んだ方ならば好意的にせよ否定的にせよこの第三の嘘までは目を通す価値は高いと思います。
しかしアゴタ・クリストフはあの斬新で衝撃的な「悪童日記」の続編として『ふたりの証拠』と『第三の嘘』を書く必要があったのでしょうか?何よりあの素晴らしい「悪童日記」を単なる作中作としての枠にいれてしまってよかったのでしょうか?今日も私はもやもや感がぬぐえません。