#642 どこまでも、泳跡を引いて。
あなたの泳跡が、好き。
あなたと湖に行った。
湖畔には、昔の実業家の別荘が見えた。
あなたは、別荘とは逆の方向に向かって歩いた。
そっちから?
離れたところから見る別荘は、まるでアニメに出てくる世界だった。
あの別荘には、大富豪と、金髪で青い目の孫娘がいる。
そんなシーンが浮かんだ。
ターミナル駅にはあんなに人が行列していたのに、湖は別世界だった。
天国って、こんな感じかな。
あなたといると、いつも、現世ではないどこかにいる気がする。
あなたには現実感がない。
実業家が住んでいた後は、実際にはフランス文学者になった娘さんが暮らしていた。
湖には島があった。
別荘は湖の奥にあった。
2階に、白い縁取りのベランダが見えた。
湖の奥に見える別荘という構図を、あなたは私に見せてくれた。
このアングルを見せるために、湖を遠回りしてくれた。
そんなことは、一言も口に出さないで。
最初、私たちは、湖の時計の6時の位置にいた。
別荘は、3時の位置。
あなたは、9時に向かって歩いた。
そして、12時を経由して、3時の位置の別荘に向かった。
水鳥が泳ぎながら、水辺を歩くあなたに付いてくる。
この水鳥は、女の子に違いない。
別荘に着いた。
外壁は柱を出した、ハーフィンバー方式。
中に入った。
暖炉の上に、鹿のハンティング・トロフィーがあった。
あなたはまるで、かつてここに住んでいたように2階に上がった。
2階に上がると、バルコニーに出た。
バルコニーの前に、水面が広がっていた。
その水面を、一羽の水鳥が長いV字の泳跡を引きながら泳いでいった。
鏡のような湖。
泳跡は、どこまでも続いていった。
あの水鳥は、あなただった。