#815 漆の器に、口づける。
あなたの唇の感触が好き。
あなたと、和食店。
和食店は、香りが好き。
ずっと、何の香りか気づかなかった。
それは、漆の器の香りだった。
子どもの頃、「漆に触ると、かぶれるよ」と、おばあさんから教わった。
おばあさんの家の庭に、漆の木があった。
いとこが、触って、かぶれていた。
家には、漆の器があった。
漆の器の香りは、家の香りだった。
旅館の香りも、好きだった。
特に、大広間の香りが好きだった。
畳の香りだと思っていた。
大広間に並べられた漆の器の香りだった。
あなたは、染物屋さんの家で育った。
染め物の型紙は、保存のために、漆が塗られていると教えてくれた。
あなたの家は、型紙から香り立つ漆の香りがしていたに違いない。
お吸い物が、漆の器で出された。
柚子の香りが立ち上がる。
お出しの味が、やってくる。
そして、漆の香りが、お見送りしてくれる。
「漆は、人間の肌の水分と、同じ比率なんだよ」
あなたが、教えてくれた。
漆の器に口をつける時、漆とキスをしている。
漆が人肌だから、キスをした時の感触が優しい。
だから、漆の器で、お吸い物を飲むとおいしい。
漆の器は、あなたの唇と同じ感触。
子どもの頃、漆の香りに囲まれて暮らしていたあなた。
あなたは、子どもの頃、家にある漆をなめたのではないかしら。
あなたの唇が優しいのは、漆が塗られているから。
あなたを見る時、つい唇を見てしまう。
なめらかな唇。
口紅を塗っていないのに、赤い唇。
光沢さえ、感じられる。
漆の器とのキスは、あなたの唇とのキス。