小池一夫です。
しばらくお休みをいただいていましたが、今回から第2シーズンということで「キャラクターマンPIP!」を再開したいと思います。
(1)あなたの《日常》は、他人から見れば《非日常》かもしれない!
今回は《日常》と《非日常》についてお話しましょう。
皆さんの《日常》とはどのようなものでしょうか?
学生さんには学生さんの、主婦には主婦の、ビジネスマンにはビジネスマンの《日常》があります。
《日常》とは、人の数だけあるものです。
あなたの《日常》は、あなたにとっては「いつも体験していること」ですから、とくに新鮮味はありませんね。
でも、他人の《日常》、他人の生活というのは、とても興味があるものです。
いい言葉でいえば「好奇心」、悪く言えば「覗き趣味」というものですね。
誰かの《日常》は、違う誰かにとっては興味深い《非日常》なのかもしれません。
同様に、平凡だと思っているあなたの《日常》も、自分以外の誰かにとっては《非日常》だったりすることもありうるのです。
子どもの《日常》と大人の《日常》とはだいぶ違うはずですし、男性と女性の《日常》も異なるところがあるでしょう。
日常が違うということは、取り巻く世界が違うということです。
そして、同じものや出来事に対しても、それぞれ見方や価値観が違ってきます。
同じことをしても、立場によって周囲の評価や感じ方も違ってきます。
もし、あなたが、今とは違う《日常》、誰か別の人の《日常》を生きることができたら…と想像してみると、それはとても刺激的なものになるでしょう。
男女の心と体が入れ替わる『君の名は。』や『転校生』のような物語、あるいは映画『BIG』や『名探偵コナン』『僕だけがいない街』のように子どもと大人の体が入れ替わったり、心は大人のまま子どもの姿になるといった作品。
あるいは、凡人がヒーローの立場になったり、突然ものすごい能力を手に入れたり自分が違う立場や価値観を持った誰かに変身(メタモルフォーゼ)するということは、とりまく世界もまたガラリと変わるということです。
好奇心や欲望を満たしたり、危険な状況でハラハラしたり、刺激的であったり、ドラマチックだったり…どんな形であれ、今とは違う自分になる、他人の日常を追体験するというのは魅力的なものです。
《物語》とは、まさにそういう《自分》から自分ではない《他者》へのメタモルフォーゼを読者に体験してもらうこと、他人の《日常》すなわち「違う人生を生きる」という体験をしてもらうことに他ならないのです。
(2)《非日常》は職業や立場によって違う
《物語》とは《他者の日常》を体験することだ、と先ほど言いました。
たとえば、普通の人は「死体を見る」ということは、めったにない、《非日常》なことです。
でも、日常的に「死体」に触れる職業もあるわけで、その人たちにとっては「死体」は《日常》です。
たとえば、殺人事件の犯人を追う警察官の《日常》は、他の人にとっては《非日常》となり、とても興味深いものですが、死体を見たり、犯人と格闘したりということは警察官にとっては《日常》なのです。
警察官というキャラクターにとっては《日常》ですから、大して感情が動かない場合もあるでしょう。読者から見ても、最初は新鮮に見えていたことも、一通り驚き慣れて、同じような事件ばかりしか起こらないのであれば、「そういうものなんだな」と、そこから飽きはじめます。
しかし、日頃から殺人事件には慣れているはずの刑事でさえも、驚き興奮を隠せないような刑事にとっても《非日常》な事件があるはずなのです。
それこそが、読者を惹き付ける《非日常》の中の《非日常》なのです。
日常的に死と隣り合っている、戦場のドラマでもそうですし、人を死から救うお医者さんのドラマでもそうです。他者から見て《非日常》的な、新奇なことでも、慣れてしまえばそれは《日常》になってしまいます。
ニューヨーク市警の殺人課の刑事にとっては、「殺人事件」や「死」というものは《日常》の範囲内です。それは、「殺人」や「死」というものが、彼らの《想定の範囲内》にあるからです。
だとすれば、彼らにとっての《非日常》とは一体どういうことなのか。
それは、一言で言えば《想定外》のこと、ということです。
殺人課の刑事にとって「強盗殺人」などは「想定内の普通の事件」でしょう。そのための訓練や経験を十分に積んで、対処の仕方もわかっています。
「普通の殺人事件」ではなく、どう対処していいかわからない「想定外の殺人事件」が起こった時、一気に《非日常》になり、興奮することになります。
常軌を逸した連続殺人事件や、予想外の犯人や容疑者、動機や関係性の珍しさ、猟奇性・異常性の高さ、密室殺人など不可解な状況、死者からのメッセージなど、他の「日常的な殺人事件」とは違う、通常ではない想定外の出来事があったときに、《非日常》性が高くなり、ドラマは盛り上がるのです。
また、普通の人と《日常》《非日常》が全く逆の場合もあります。
銃を撃ったり、戦車や戦闘機、戦艦などを操縦したりする兵士の日常は、普通の人にとっては《非日常》なものです。
しかし、兵士にとっては、日頃から訓練を積んでいる、想定内の《日常》でしかありません。
戦場に来て、たくさんの「死」と向き合うことになった兵士たちには、その死と隣合わせの戦争が《日常》になります。
彼らにとっては、故郷に帰って愛する人と平穏に暮らす日々、我々の《日常》こそが、夢にまで見る《非日常》になります。
救急病院のお医者さんにとっては、次々とやってくる患者さんを診察したり、治療したり、手術をしたりすることは、《日常》ですが、急病患者自身にとってみれば、《非日常》であり、人生の一大事です。
入院すれば、《非日常》の日々が始まるのですが、その入院期間が長くなるとそれがやがて《日常》になり、退院を待ち望むようになります。
物語の基本は「日常」生活から「非日常」の事件・体験を経て、再び「日常」に戻っていくことです。
しかし、最初の「日常」と「非日常」(事件・戦い・旅・トラブルなど)を経たあとの「日常」では、何かが違っていることが望ましいのです。
たとえば、ケンカばかりしている夫婦が、一つの大事件に直面し、それを解決することで、お互いへの理解を改める、とか、
最初の《日常》で何か問題(葛藤、欠点)を持っている主人公が、ある《非日常》な体験をすることで、その《日常》に戻った時点で、最初の問題を少しでも改善させている、といった具合です。
何度も言っている「ゲイン・ロス」ですね。
最初の「日常」で失われていたものに、《非日常》の出来事の中で気付かされ、失われていたものを取り戻す、ということです。
他の人の《日常》と《非日常》は、作家にとってはネタの宝庫です。
今日から、他の人の《日常》を観察して、それが自分の《日常》とどう違うか、その人の《非日常》とは何か、ということを考えてみましょう。
物語になりそうな面白いこと、興味深いことがすぐに見つかるはずです。
それでは!
小池一夫
(次回、11月16日掲載予定です!)