(1)《心》の記録を残そう
小池一夫です。
みなさん、日記はつけていますか?
文学には日記文学というものがありますね。
「土佐日記」「紫式部日記」「十六夜日記」「和泉式部日記」「蜻蛉日記」
海外でも「猟人日記」「アンネの日記」……数え上げたらきりがありません。
日記とは、いうまでもなく、個人の生活の記録です。
歴史の大局を記した「歴史書」に乗っていないことが、たくさん書いてあります。
たとえば、江戸時代を舞台にした作品を描こうにも、当時の人々の生活の細部(ディテール)は、幕府や藩の歴史書を読んでも見えてきません。
現在、江戸時代の人々のさまざまな生活についてわかっているのは、個人の日記の存在というものが非常に大きいのです。
当時、屋台の夜泣き蕎麦がいくらだったか。何月何日は雪が降ったか。この日誰々はどこにいたか…。
こういったデータ的な部分が大事なのはもちろんですが、もう一つ重要なのが、当時の人の「気持ち」がそこに記されてあるということです。
それは、何百年前に確かにそこに生きていた人間の「心」そのものにほかなりません。
日記とは、人間の生の、リアルな、息づいた「心」を記したものなのです。
(2)「お人形遊び」のようなキャラクターにするな
ふだん、映画やドラマ、漫画、アニメなどを観ていて、
「なんだか、『お人形遊び』みたいなキャラクターだなあ」
と思ったことはありませんか?
キャラクターが「動いている」のではなく、「動かされている」。
将棋やチェスの駒のように、見えない製作者の手が、透けて見えるような感じの作品がたまにあります。
「こんなやつ、いねえよ」と思われてしまうと、その作品はもうダメです。感情移入できませんから、とたんに求心力を失ってしまいます。
キャラクターの設定を創り込み、年表を創る。
これは大事なことです。
キャラクターがこう動く。
ここで彼と彼女がこうやって出会って、こうなる。
こうやって、キャラクターの動きをシミュレーションしていく。
とても、大事なことです。
でも、忘れちゃいけないことがあります。
創り手の設計図、進行予定のプログラムに当てはめようとしては、キャラクターが『お人形さん』になってしまいます。
キャラクターの動きをシミュレーションするのは正しい。
ですが、そのキャラクターの「心」をちゃんと、シミュレーションしているのかどうか。
主要キャラクターだけでなく、脇役にも連続性を持った「心」があることをわすれてはいけません。
たとえば、今、映画を創るとします。
壮大な物語にしたいから、SF的なガジェットも入れてやろう。
ラブストーリーで、女性受けも狙おう。
軽妙なギャグも、ソフトなエロシーンも入れよう。
「泣きました!」「感動しました」と宣伝ができるから、好きな人が死ぬことにしよう。
伝統文化や美しい風景をいれて、地域おこしや聖地巡礼も狙おう。
気鋭のアーティストに主題歌を歌ってもらおう。
そうやって、多くの資金を費やして、多くのスタッフが関わり、プロ中のプロたちの素晴らしい入魂の手仕事によって、作品が完成したとします。
しかし、観客は、そのプロ中のプロたちの尊い仕事によって成り立った作品を、一言で台無しにすることができます。
一気に《凡作》の汚名を着せることができるのです。
「死刑宣告」といってもいい。
「よく出来てたけど……キャラクターに全然、感情移入できなかったなあ」
「人間が描けていないなあ」
「キャラクターが起っていなかったなあ」
どれだけプロ中のプロの手がかかっていても、何十億何百億のお金を費やしていても、お客さんには関係ないのです。
「キャラクターに感情移入できない」「キャラクターにリアルを感じられない」……「キャラクターが起っていない」……。
ただそれだけで、その作品は凡作、あるいは駄作になってしまうのです。
たとえば、一本の映画だと、本当に多くの人の手によって作られています。
本編終了後、スタッフロールに流れる多くの人々の名前。彼らの、何百人もの人々の苦労と努力の日々に対して、観客は、一瞬にして汚名を着せることができるのです。
それが、「キャラクターが起っていない」という《大罪》です。
だからこそ、映画の脚本やコンテといった、キャラクターの言動を通じて「心」を描かなければいけない者、そして彼らを統括し、責任を負う監督の責任はきわめて重大なのです。
漫画の場合で考えるとわかりやすいでしょう。ネームや原作の時点で、キャラクターが今ひとつ描けていない作品だと、どれだけ作画を頑張っても、作品の評価は「画はいいんだけど…面白くないなあ」になってしまいます。
漫画なら、それでも少人数ですから描き直すことができますが、多くの人とお金をかけて創る映像作品だと大変ですね。
では、
「キャラクターに《心》がない」
「人形遊びのようで感情移入できない」
「キャラクターが創り手の都合で《動かされている》」
といわれないためにはどうしたらいいのでしょうか。
キャラクターを動かす時、そこに《心》が入っているのか。
「《心》を入れるといわれても……」と戸惑うかもしれません。
そうです。空想しても、他人の《心》の動きはわからない。
わかったと思っても、推測でしかありません。
だったら、他ならぬ自分の《心》を入れるしかない。
「自分はこんな時、こんな気持ちだった」
「あの時、自分はこんなことを言ってしまった」
「こんな言葉で救われて、とても嬉しかった」
「物語の進行の都合」、「創り手の都合」によってキャラクターを動かすのではなく、
自分の体験に根ざしたキャラクターの気持ち、心の動きに従って、キャラクターを動かす。
それによって、物語の当初の設計が狂ってしまうかもしれない。
企てていたテーマが変わってしまうかもしれない。
他のスタッフや関係者と利害が衝突して意見が合わないかもしれない。
それでも、出来る限り、キャラクターの心に従うべきなのです。
《心》とは目に見えません。
辛いこと、楽しかったこと、喜び、面白かったこと、哀しかったこと、怒り、焦り、感動、冷淡…自分でも予想しなかった、心の不可思議な動き…。
心をかき乱し、体調にさえ影響を与える《感情》も、時間とともに、忘却の海に消えてしまいます。
キャラクタークリエイターは、そういう目に見えない《心》を「スケッチする」習慣を持つことです。
そのための一番簡単なツールが「日記」です。
毎日びっしり書かなくてもいい。一行でも、一言でもいいから、手帳やノートに残しておく。紙きれに書き込んで、以前話した《キャラクターボックス》に投げ込んでおいてもいい。
宮沢賢治は「心象スケッチ」という形で残していました。
若い頃、思春期の多感な時期に「詩」を書いていたという人もいるかもしれません。
誰一人わかってくれる人がいないと思った孤独や、自意識過剰と万能感による増長、世界の美しさに気付いた感動。初めて人を愛し、愛されるという体験。
それを「中二病」とか、「黒歴史」といって、「恥ずかしい過去」として葬り去るのは、とてももったいない。
あなたの若さゆえの感情の揺らぎ、闇の中での葛藤と悶絶の記録は、今まさに、その闇の中で悶えている人には、希望の灯りとなるかもしれない。
そういう心のスケッチを、明るみの下に引っ張り出してきて、キャラクターたちにつけてやれば、「なまなましい」「人間くさい」「リアリティのある」キャラクターになります。
日頃から、自分の生の、むき出しの《心》を記録すること。
その恥ずかしいところ、人に知られたくないところも含めて、キャラクターに宿らせること。
そうすることで、あなたのキャラクターは「お人形遊び」ではなくなり、生き生きとしたキャラクターになるのです。
そして、あなたの「心」がこもったキャラクターは、多くの人にもリアリティを感じさせ、共感を得るでしょう。
恥ずかしいこと、苦しかったこと、哀しかったこと。情けないこと。
そんな、普通は胸の奥にしまっておくような「心の形」をこそ、クリエイターは直視し、分析し、スケッチしてストックしておくことです。
そして、それを発表する。
恥ずかしい!?
文学でも、映画でも、名作といわれるものは、「恥ずかしいこと」「なさけないこと」「誰にも言えない秘密」を赤裸々に告白したものがほとんどといってもいいでしょう。
誰もが隠したいことを正々堂々と問いかけるからこそ、そこに人間の生き方や存在意義の問いかけが生まれ、観るものの心に感動が生まれるのです。
そんな作品は「人間」そのものを描いているわけで「人間が描けていない」と言われることはありません。
それに、そんなに恥ずかしがることはありません。
その「恥ずかしい」ことは、あなた自身の告白ではなく、「キャラクター」につけて、カモフラージュしてやればいいのですから。
それでは!
(次回、最終回、2月1日掲載予定です!)