(1) 人はなぜ、有名人と写真を撮りたがるのか
小池一夫です。
人はなぜ、有名人と写真を撮ったり、サインをもらいたがるのか。
そんなことを考えたことはありますか?
同じ空間で一緒にいたということを、なんらかの証拠を残したい。記録に残したい。
その人に、自分の存在を知ってもらいたい。すこしでも関係性を持ちたい。
他の人にその有名人の威光、その「キャラクター」のオーラを通じて、自分を認められたい。
サインを求めたり、写真を撮ったり、握手をしたりする。
普段は冷静で全然ミーハーでもなく、サインを集めているわけなくても、ある人に出会った時には、興奮して、サインをもらわずにおれなくなる、ということがあります。
それは、言い換えればその有名人のキャラクターの魅力によって、心を奪われて、突き動かされていることに他ならないのです。
そんな時、ファンにとっては、場所はどこでも関係ない。
たとえば、あなたの好きな有名人が歩いていたので、声をかけたらニッコリ笑って握手やサインをしてくれた。
そこが東京の六本木でも、大阪の御堂筋でも、ニューヨークでもパリでも北京でも、嬉しいことには変わりない。
その人にとっては、その人に出会って、目線が合って、会話を交わした事が大事なのです。
キャラクターと何をしたということが一番で、そこがどこであるというのは二番目以降のことです。
もちろん、パリの街角で出会えばロマンチックだし、公衆トイレの前で出会えば滑稽な感じがあるけれども、まずはその有名人と出会う、ということが一番のトピックなのです。
ニューヨークでも、パリでも東京でも、「どこで会ったか」という「背景」はその次にくることで、まずはその有名人と出会って、その人とどういう関わりを持てたか。そこで何が起こったかということが大事なのです。
漫画でも同じです。「キャラクター」こそが大事で、「背景」はその次でいい。
それを強調するために、僕はよく、こういいます。
「背景なんかいらない!」
(2) 「背景なんかいらない」の意味
これは漫画だけでなく、小説や映像作品など、あらゆる物語でも同じです。
小説などで、雰囲気を出そうと思ってか、あるいは紙数を稼ぐためか、やたらと舞台となる場所の歴史や、関連知識、豆知識的なことを書き連ねたり、凝りに凝った細かい風景描写を書き込まれている時がありますね。
たとえば、時代小説などを読み始めると、江戸の日本橋の描写からはじまり、その街の歴史や江戸の街の雑学を書き連ね、川に浮かぶ屋形船や、数日前に行われた祭りや、今の天候や、道行く人たちについて、地の文で長々と説明したりする。
4ページも、5ページもそんな「説明文」が続き、肝心の主人公がまったく出てこないと、やがて読者はイライラし始めます。
読者は、何も江戸の資料集を読みたいんじゃないのです。
主人公の活躍が読みたいのです。
なにか事件が起こって、キャラクターが活躍する。
それが見たいのです。
舞台となっているのが何という街で、どういう歴史を持ち、どんな雑学をもっているのか。
今、雪が降っていようが、雨が降っていようが、それほど重要ではない。
(もちろん、雨が重要な要素になる話なら別ですが)。
これらは、みんな「背景」です。
キャラクター無くして、背景の説明、描写は要りません。美辞麗句を連ねたり、美しい風景を描写するのは、一番大切なことじゃない。
読んでいる人は、「きれいな文章だな」「上手い画だなあ」と思いながらも、「面白くないなあ」「早く始まらないかな」と思いながら見ている。
人は、キャラクターに感情移入するのであって、「背景」はあくまでキャラクターが起つための背景でしかないのです。
何度も言います。背景は、そんなに大事じゃありません。
キャラクターと読者を放ったらかしにして、一生懸命描写するほど大切なものではないのです。
読者はキャラクターが動くところを見たいのです。
ここでいう背景は、物語全般でいえば、「その場所がどういう場所であるのか」についての過剰な説明や描写のことであり、漫画でいえば、背景画のことです。
もちろん、漫画の全てのコマに緻密な背景を入れても読みにくいだけであることはよくわかると思いますが、小説でも、文字でそれと同じようなことをしてしまうと、読みにくくてしようがありません。
極論すれば、背景なんかほとんどなくても、キャラクターだけでも面白い物語はできるのです。
もちろん、あくまで極論すれば、ということです。
間違えないでほしいのですが、
「背景なんか要らない」といっているわけではありません。
背景の描写に、過剰に力を注ぎすぎてもあまりメリットがない、ということです。
小説の場合は、長々とその街の歴史やら、町並みの美しさやら、名物やらといろいろ書き連ねても、読んでくれる人はいるかもしれませんが、漫画の場合だと、「説明文」が続くと、もう読んでもらえません。
読者は、一刻も早く、キャラクターと出会いたいのです。
街角で、有名人と会って握手したり、サインをもらったりするように、キャラクターと出会って、握手やサイン以上のこと……いっしょに歩いたり、話したり、冒険をしたいのです。
(3) 「背景を語るな、キャラクターで描け」
漫画でも小説でも、「背景」を過剰に描きこんでしまうのは、作家自身の思いが先走ってしまっているという部分もあるかと思います。
ファンタジーやSFなど、設定を作り込む作品だと「自分はこれだけ考えたんだ」といった意識が、語り手の饒舌さとして出てしまったりしますし、歴史物や、専門領域を舞台に描いたものなどでは、「自分はこれだけ資料を調べたんだ」という自負が、知識の羅列として特に意識していなくても、出てしまったりするのです。
でも、読者からしたら、そういうのは「面倒くさい」のです。
「うざい」のです。
物語に関係のない知識や設定は、わざわざキャラクターの動き、物語の進行をせき止めてまで書き連ねる必要はありません。
もちろん、読者の邪魔にならない程度であれば、問題ありません。「これ、読者の邪魔にならないかな」ということを意識しておくことが重要です。
これは、前回話した「主観」と「客観」の問題ともいえます。
お客さんが「キャラクターと出会いたい、活躍が見たい」と思っているのにもかかわらず、作者として、書きたいという欲求のまま、知識や設定を開陳したいという欲求のままに書いてしまうことがあります。
主人公が出てきていないのに、「江戸日本橋が栄えたのは家康入府の何年後ごろからで…」「店と店の間には『うだつ』というものがあり、これが『うだつが上がらない』という言葉の語源である…」なんて何ページもやっちゃうと、読者はどんどん離れていくわけですね。
たとえば、ご飯を食べに行ったのに、料理を前にしてお預けをくらい、長々と店主の料理に関するウンチクを聞かされるようなものです。
「お客さん目線」である「客観」をないがしろにして、「主観」で突っ走ると、読者不在の作品が出来上がります。
前回もいいましたが、「客観」とは、目に見えるキャラクターの言動を描くことであると同時に、目に見えないことも、キャラクターを通して目に見える形で描くことです。
そのままでは見えない感情も、考えも、状況も、過去も、できるだけ目に見える見た目、表情やしぐさ、言動、小道具などでビジュアルとして描く。
キャラクターに演技をつけて、キャラクターに演じさせるのです。
作者の存在を過剰に感じさせてはいけません。
僕の漫画の師匠である、さいとう・たかを先生は
「漫画家は花火師のようなもので、前に出てきてはいけない」
といったことを言われたことがあります。
花火を打ち上げる時に、裏方である作者がしゃしゃり出てきてはいけません。
同じように、作品の中での「背景」もまた、キャラクターを支える「裏方」なのです。
背景とは文字通り、キャラクターの背後にあって、キャラクターをもり立てるものなのです。
「主観」が強いと、読者は入りにくくなります。歩いている街の背景を事細かに描きはじめたり、作品の背景について、長々と語りだすと、作者の自意識が暴走して、一番大切なお客さんである読者をはじき出しているかもしれません。
第三者目線、お客様目線で「客観」的に、わかりやすく、おもしろく描く。
「背景を語るな、キャラクターで描け」とは、そういうことなのです。
それでは!
(次回、11月30日掲載予定です!)