小池一夫です。
「名作はダジャレから生まれる」。
こんなことを言うと、
「バカなことを言うな、そんなつまらないものから人を感動させるような名作が生まれるわけがない!」
と思う人がいるかもしれません。
ええ。そのとおり。それで結構です。
一般読者の方はそう思っていただいて結構です。
その方が、創り手の方はやりやすい。
「まさかあの傑作がダジャレから生まれていたなんて!?」とショックを受けられると困りますので。
でも、そういうところから、作品の着想を得ることは非常に多いのです。
ふとした瞬間に「ある言葉」が頭に閃きます。
それは、一般の人からすれば、「ダジャレ」かも知れない。
でも、作家はそれを作品の発想の元にする。
たとえば、
「布団が吹っ飛んだ」
というのは、たんなる言葉の類似からくる、笑いです。
まあ、ダジャレとしては面白いとはいえない。
ダジャレとしては手垢がつきすぎているからです。
でも、こう考えてみてください。実際にあなたが寝ている布団が、本当に、大爆音とともに大空に吹っ飛んだら、……それはとんでもないことです。
これは、第三者が観ていても、大変驚きますし、物語の中で起こる出来事としては、「面白い」ことです。
ゲラゲラ笑うだけが「面白さ」ではありません。ドキドキする、ワクワクする、ヒヤリとする。
「ふとん」が「ふっとんだ」という、単なる言葉の類似から出た発想ですが、そこに本来は全く違うAとBを結びつける力、意味的には距離が遠い言葉をワープさせる力、あるいは化学変化させてる力が働くのです。
その「つまらないダジャレ」、言葉遊びが、しかし大いなる発想の元になることがあるのです。
幼少期、アラビアンナイトの「魔法のじゅうたん」のように、あるいは布団を雲に見立てたりして、布団に乗って空を飛ぶ、といった空想をしたことがあるとしたら、「布団が吹っ飛んだ」からそれを連想し、布団に乗って世界中を旅する少年の物語が出来るかもしれない。
あるいは、ものすごい爆発力を持った新開発の爆薬が、布団に仕込まれていとしたら、どんなお話が頭に浮かぶでしょうか。
たとえば……
宿泊施設が使うレンタル布団ってありますね。その一つに時限爆弾が仕込まれていたら、どうでしょう。
その布団で寝るのが子どもなら、さらにおもしろくなる。
「京都中の小学生の修学旅行の宿泊施設のどれかに運び込まれてしまう」とかね。
衝撃を与えると爆発するのに、何も知らずに寝たり、枕投げしたり、ポンポン跳ねてしまう。寝ている子の寝相がすごく悪くて、ハラハラするとかね。
舞台が修学旅行の豪華客船の上でも面白くなる。すでに就寝中の、300人いる修学旅行生の誰の布団なのかがわからない、とかね。
あるいは……
派手なことで有名な名古屋の嫁入り道具の、嫁入り布団の中に、時限爆弾が仕込まれているとしたら?
ド派手な嫁入りトラックを追う主人公の刑事。
さらにそれを追う、爆弾の持ち主の犯罪組織……犯人は嫁入りトラックを乗っ取り、東名高速を東京に向かって爆走する。
車を壊された刑事は、パーキングエリアに止まっていたトラック野郎の超ド派手な「デコトラ」に飛び乗って、菅原文太さんみたいなトラック運転手と一緒に爆走する名古屋嫁入りトラックを追いかける……。
まあまあ、おもしろそうでしょう。
言い古されたダジャレである「布団がふっとんだ」から連想するだけでも、こういう形で、いろいろと連想が飛躍し、広がっていくものです。
ダジャレとは「飛躍」です。
本来ははるかに距離のある二つのものを、「たまたま言葉が似ていた」という理由だけで、くっつけてしまったものです。
それゆえに、言葉と意味に落差が生まれ、笑いになります。
以前に「受け言葉はウケない」という話をしました。
簡単に予想可能な発想は全然面白くないのです。
かつて、フランスの詩人・ロートレアモン伯爵は
「解剖台の上でミシンとこうもり傘が偶然出会うように美しい」
といったようなことを言いました。
偶然出会った、全く違う「物」や「事」。
それを組み合わせて「美」や「面白さ」を創りだす。
本来出会うはずのないもの同士をくっつけて、予想もできない化学変化、発想の飛躍を起こす。
料理人は、国内外の海の幸、山の幸、畑の野菜、畜産物、香辛料など……自然界では絶対に出会うはずのない食材を使って、美味しい料理を魔法のように創り出します。
同じように、作家はこの世界のあらゆるものの中から、面白くなる材料をチョイスして、それを作品に活かしていく。
それがクリエイターの仕事です。
でも、世の中には、膨大な「事」や「物」がありますね。
現実の世界では、何らかの「偶然の出会い」があって、それまで全く縁のなかったAとB、二つのものが、関わりを持ち、予想外の事件を巻き起こすこともあります。
偶然出会ったのならいいですが、創作の場合は、無限大にある組み合わせから、人の手でどれかを選び取らなければならない。それは簡単なことではありません。
Aというある物を捕まえた時に、それにくっつけると面白くなるものとしてBを探しますが、なかなか決定打がない。
頭で理詰めで考えると、発想的に近いもの、隣接したものが出てきてしまう。
そこで、何かランダムにあらゆる事物を発想させてくれるルーレットやスロットマシンのようなものがあればいいのですが、そんなものはなかなかない。
でも、それに近いもの……「打ち出の小槌」のようなものはあります。
「偶然の出会い」を手っ取り早く捉えるためのツールが「ダジャレ」なのです。
まあ、「ダジャレ」というとちょっと品がないので、言い換えれば、「洒落言葉」や「言葉遊び」というべきかもしれません。落語や和歌など、さまざまな文芸活動の中で、古来から行われてきた「掛け言葉」も同様ですね。
偶然、「言葉の読み」が似ているというだけの、全く関係ないもの。
それを無理やりくっつけて、似た言葉同士の意味の差異で、笑いという科学爆発を起こす。
それが「言葉遊び」です。
それを物語の発想法に応用する。そうすることで、先のような発想の飛躍、ワープが生まれるのです。
こういったダジャレ発想法は、僕も好んでよく使いますが、もちろん僕以外の作家でもよく行われています。
あなたの好きな作品を思い浮かべてみましょう。
作品名やキャラクター名の発想の源はギャグやダジャレ、パロディなのに、キャラクターとして定着しすぎていて、全く違和感がなくなっているものがたくさん見つかると思います。
ダジャレから出てきた発想であっても、作品が面白ければ全く気にならないし、多くの場合はダジャレが発想源であることも気づかれません。
たとえば、僕の『子連れ狼』の主人公・拝一刀(おがみ・いっとう)は、一匹狼の殺し屋なので「狼一頭」というダジャレから来ていますが、誰にも気づかれませんでした。
『大菩薩峠』の主人公・机龍之介は、作者の中里介山が原稿を書いて名前に困った時に机を見て「机…机という名前にしよう」というので決まったそうです。
柴田錬三郎の「眠狂四郎」は「作者が眠かったから」、野村胡堂の『銭形平次』は、執筆している部屋の向かいで建設会社の「錢高組」が工事をしていたので、その名前になったと言われています。
本当かどうかわかりませんが、大キャラクターの名前も、案外そんな偶然によるものであったりします。
名前以外でも、物語の発想の源というのは、存外つまらないもの、ささいな気付きだったり、偶然起こった何気ない出来事だったりするのです。
創作とは、とにかく迷うものです。
これでいいのか、こっちのほうがいいんじゃないか。
物語の上で、こっちを選択してしまうと、浮かんでいたこの物語の流れや、用意していたアイデアや世界観がごっそり使えなくなる。何十時間の準備が無駄になる……でも、キャラクターの動きとしては、こっちのほうが自然なような気がする……といった迷いが常にあります。
創作の上で、大きな決断をしなければならない時、なんらかの決定打が欲しい。
誰かに決めて欲しいけど、自分で決めなければならない。
とても苦しい。誰かに決めてほしい。
そんな時に偶然起こった出来事や、「言葉遊び」によって決断を後押しされることもあるのです。
発想や決断においては、合理的に考えても、答えが出てこないことがままあります。
そんな時は、「偶然」や「なんとなく気になる」……「自分の中の何かにひっかかる」何かを頼り、信じましょう。
読んでいる本で目に留めていた言葉がテレビから聞こえてきたとか、
たまたま通りかかった葬儀屋で、お葬式をする二人の名前から発想するとか、
子どもの頃に住んでいた近所の友だちとか、自分だけしかわからないし、全く必然性はないけど、自分にはこれしかないと思える、というもの……そんなものを信じてみましょう。
そして、「ダジャレ」。
日頃から、言葉に敏感になり、連想力を鍛えましょう。
「ダジャレ」すなわち「言葉遊び」は、振れば振るほど、空中からアイデアが湧き出す「打ち出の小槌」のようなものです。
どんどん「言葉遊び」をしましょう、ということです。
ただ、つまらないと「ダジャレばっかり言って!」と言われますので、人前で言う場合は気をつけたほうがいいかもしれません。
まあ、そう言われる人は、大抵センスが悪くて面白くないから「ダジャレ(駄洒落)」と言われるわけで、センスが良くて面白ければ「あの人は言うことが洒落ている」となるのです。
気をつけましょう。
それでは。
(次回、12月28日掲載予定です!)