香りから蘇る記憶は、どうしてこんなにも鮮明なのだろう。
それなのに、その記憶について説明できる十分な言葉があるかと考えてみると、たちまち心もとなくなってしまう。
たとえば香水の銘柄や、花や果実の名前、すでに香りを表現するものとしてある言葉を使って、香りの記憶をかたちにしようとしても、いつもどうにも、うまくいかない。それはどういう匂いで、どんなときにその匂いを嗅いで、そこに誰がいたのか。誰といたのか。何を思ったのか。なぜ、いままだこんなにも忘れられないのか……。説明しようとすればするほどに、蘇った記憶の鮮明さが失われていくような気がするのは、なぜなのだろう。
けれど。だれかの語る思い出を聞いているうちに、ああこれは確かに私が知っている香りの記憶だ、と思える瞬間というのがなぜだかあって、その甘やかな錯覚は、記憶の中に漂ったまま居場所を失っていたかつての日々に名前をあたえてくれる。
わたしたちには物語が必要なのだとあらためて気づく。
村山由佳さんの『ワンダフル・ワールド』を読んだとき、そんなことを思った。
かつての恋人との再会で芽生えた新たな感情や、「愛人」という言葉では割り切れない関係、そして、久しぶりの恋を捨ててでも守りたいもの……。「アンビバレンス」「オー・ヴェルト」「バタフライ」「サンサーラ」「TSUNAMI」という五篇の物語には、普通の恋愛とは呼べないけれど、混じりけのない愛情や絶対的な安心感を与えてくれる存在が、特別な香りとともに描かれていた。
読み終えたときにはイメージが固まっていた。
村山由佳さんがB&Bでお話をしているイメージ。そしてそれは対談の相手がいて、参加者がただそれを聞いているのではなく、作者と読者がもっと親密にかかわっている時間。本に囲まれた空間で、作者と読者がひとしく語り合えるようなひととき。
イベントの依頼は、新潮社の担当さんを通して村山由佳さんへさし上げた。
4年もイベントを企画していても、作家にはじめて依頼をするときはいつもまるでそれがはじめてのことのように緊張する。何度もお世話になっている方にたいしても、緊張はほぐれない。
依頼書には、あいさつ、B&Bの紹介に続き、イメージしているイベント内容とタイトル、対談相手の候補、そして本の感想を書くようにしている。その上で、著者の希望を伺っていく。
私は仕事柄、依頼を受ける側になることも多いので、自分が受け手の立場でこれを読んだらワクワクするだろうか、これを書いた人の話をもっとじっくり聞いてみたいと思えるかどうかを、心がけている。
村山さんへは、「誰かを思うことと香りの記憶」をテーマに、お客さまと語り合っていただきたいと伝えた。事前に参加者からエピソードやお悩みを募集しておいて、村山さんに答えていってもらうというスタイルだ。
NHK FMで『眠れない貴方へ』という番組を持っている村山さんの語りの巧さと、相手の心をリラックスさせる声の温かさを私は知っていたので、その空気感をそのままB&Bに持ってこれないか、というたくらみもあった。
そこに村山さんがいて、『ワンダフル・ワールド』を間において、向かいに50名の読者。大切な香りの記憶を持ち寄って出会えば、イベントは成立すると思った。
村山さんはこの企画をおもしろがってくださり、果たしてイベントは実現することとなった。そしてイベントが告知されて数日後、村山さんから、一通のメールが届いた。
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せっかくの親密な場ですから、作品や創作についてはもちろんのこと、個人的な質問にもできるだけお答えしたいと思っています。
私から読者への質問を考えてみました。
① あなたにとって特別な記憶に直結している〈香り〉はありますか? その思い出と香りについて教えて下さい。
② 〈香り〉以外で、記憶が引き出されるきっかけになっているものはありますか?
③ 『ワンダフル・ワールド』をお読みになった方へは、五編のなかで、とくに好きなのはどのストーリーですか? それはどうしてですか?
④ 質問、相談してみたいことがあったらご自由にお書きください。
皆さんに、どうぞ思いきって質問をお寄せくださいとお伝え下さいね。
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こういう気持ちを受け取ると、企画はひとりでかたちにできるものではないんだよなあと、あらためて実感する。参加者に拡散すると、その日から、ものすごい熱量の「香りの記憶」が届きはじめた。チケットは早々に完売していた。それなのに、「イベントに参加できなくても、村山さんに読んでもらえるだけでいいので」とメールを送ってくる方もいた。
さすがに、参加者から寄せられた感想やお悩みを公開することはしないけれど、「よくもここまで、きわめて個人的な思い出を共有してくれましたね」と村山さんが終始驚いていたほどに、イベント中は、赤裸々な過去や現在進行形の情事が語られ続けた。「これはあなたにしか書けない恋愛小説ですね」と伝える村山さんのやわらかなその声が、とても印象的だった。
そして私はというと。不思議な感覚をおぼえていた。村山さんと参加者が語り合う時間は、小説を読んでいる時間にとてもよく似ていたのだ。
あの時間を共有した方たちはどう思っていただろう。
ふたたび『ワンダフル・ワールド』を開いたとき、そこに五篇よりずっと多くの香りを感じたりするのだろうか。
そんな日が来たら、イベントを企画した者としてそんなに嬉しいことはない。
余談だけれど、このイベントを企画しているあいだじゅうずっと、ある言葉がずっと、頭の中でリフレインしていた。それはこんな言葉。
「ずっと探しているのに、まだ見つからないのは、それがあなたにとって大事なことだからだよ」———。(「アンビバレンス」『ワンダフル・ワールド』 新潮社 2016年 所収)
(次回は、10月4日掲載予定です!)