「もっと活躍の場があれば! 」っていう想いでやってきた。

犬木先生 私は、日野先生や楳図先生とかにやっぱり頭が上がらないというか、仇討ちをしてあげたつもりだったの。だから、道を拓きたくって、この道をずっと続けていきたいのに、いつもなんか社会的な色んなものとかで、道ふさがれちゃって、シューッて終息してしまう。それがすごく悔しくって。私は、それを勝手に恨み返し的にやったつもりだったんだけど、今から考えたら自分で勝手にやったんだから、「俺たちはそんなもん頼んでねーよ」って言われちゃえば、そこまでなんだけど。私はやっぱり、もっと恐怖漫画、怪奇漫画、ホラー漫画なんて誰も言わなかったけど、私が出てくるまでの20年間に、もっともっとこういう世界があってよかったんじゃないかなって思っています。
日野先生 空白があったからね。
犬木先生 そう、空白が作られちゃって。
日野先生 その前に『エコエコアザラク』の古賀新一先生がいて、「Maco」って雑誌があったんだよ。多分あの版型が、一番最初だと思う。リップ書房って出版社で、あれがもう1年か2年持ちこたえたら、ブームに乗れてたんだけど。でも、それが出来なかったんだよね。その時に、古賀先生とちょっと電話で話したんだけど、「恐怖漫画は終わりましたかね?」みたいな。出てこなかったし、俺以降は。ようするに水木しげる先生がいて、楳図先生、古賀先生はちょっとなんだけど、その世代なんだよ、俺の世代は。その後がね、本当10年くらい空白なんですよ。
犬木先生 ううん、私は日野先生と12歳離れてる上に、28歳の時にデビューで遅いですから、20年ですね。
日野先生 犬木先生が、28っていうと、俺は40だよね。
――『学校怪談』の高橋葉介先生は?
犬木先生 もうちょい前かな。高橋先生も、ある一部分のマニアックな作品で『腸詰工場の少女』っていう作品。でも、活躍の場がなかった。当時は高橋先生のような作家さんが描ける場所がなかったんですよ。私は本当に、恨み返しであれだけいきおいよく描いて雑誌を増やしちゃったの。「もっと活躍の場があれば! 」っていう想いだけで。
日野先生 本人を前にして言うのもおかしいけど、犬木先生が頑張っているから、まあまあ先人だよ。俺ら老兵は、その後ろに居ただけで。特に40代の10年間はそう思っていたから。だから、ものすごく感謝してる。
犬木先生 いや、とんでもないですよ。先輩たちの恨み返しを思いっきりやっただけですから私は。でもそれももう終わっちゃって、次の子達も出てきて、なんかこうやっぱりちょっと気が抜けちゃったんだよね。やっぱり忙しかったから、色々溜まってくるし、ストーリーとかのストックがない。「私だったらこんなのを描く」っていうのがいっぱいあったんだけども、それを10数年間、吐きっぱなしだったので。
日野先生 そりゃあ、そうなるよなぁ。
犬木先生 でしょ。あとやっぱり、人を楽しめるためだけに10数年暮らしたら、「誰か私を楽しませて!」っていう願望が出てきて。ゆっくり映画も観れないし、テレビも観れない。もちろん、本も読めなくて、それがすごく辛かったんですよね。で、次の子達も出てきて、「私もぼちぼちもういいなあ」とか「もう、私も要らないんだろうなあ」っていう感覚におちいったんですよ。最終的には、子供ホラーの限界というか、もうこれ以上は描きたくないっていう気持ちかな。
作品に潜む文学性

日野先生 俺もそうなんだけど、犬木先生は、漫画を表面だけで描いていなくて、一言で言うと「文学性」があるんですよ。どういう意味かと言うと、犬木先生は漫画作りにおいてちゃんとした自分の土台があって、ストーリーが自分の身から出ているということ。だから、犬木先生は10年続けられたわけ。表面だけじゃないんですよ。
犬木先生 しかも半端な10年じゃないですからね。人の3~4倍は描いた10年でしたから。
日野先生 表面の怖さとかではないので、読んだ人の心に残るんだよね。
要するに読者が子供の頃に見て、心に植え付けられる。グサッっと刺さるって言葉はまずいかもしれないんだけど、大人になってもう1回思い返した時に、「ああ、そうか!これはこんな意味があったのか!」って、思ってくれればいいと思うんだよ
犬木先生 そう、私はそれにプラスして、エンターテイナー性を加えたんですよ。
エッセンスとして。エンターテイナー性とホラーを融合すればいけるって思って描いたのが、『たたりちゃん』。
それがズバリ当たっちゃって。サスペンスアンドホラーでも『たたりちゃん』を描いて、月刊誌でも『たたりちゃん』を描いていたんですよ。
日野先生 まあしかし、ようやったよなぁ。
犬木先生 あの当時は本当に忙しかった。ただやっぱり、仕事は山のようにあったから、お金の心配はせずに済みましたけど。みんな「明日食えるかな?」とか「明日、次の仕事があるかな?」っていう状況の中で生きてきたから。
日野先生 でもね、俺なんかは男だから、その綱渡りのような人生が凄く刺激的である意味ヒロインのような感じ。
犬木先生 わかる!若いときはそれもいいんですけどね。歳とってくるとね。
日野先生 歳をとると恰好つけるわけにいかないわけよね。俺、デビューした時に自分の色合いを持って、短編漫画目指していましたから。
短編漫画家がいてもいいだろうって。で、300タイトル、例えばO・ヘンリーとか星新一みたいな同じ色合いで並べられたら、王道は無理ですよ。100万部とか、そういうわけには行かない。なんだけど、短編漫画家としてのポジションはとりあえず取れるかなって思ったんですよ。
――短編漫画家としてのポジションですか?
日野先生 そう、ポジション。例えば、プロ野球で言うと代打専門や守備専門でもいいし、代走専門でもいいのよ。その専門職としてのポジションがあれば。
その想いでやってきて50歳の時に、これまでの作品とページ数と発表雑誌を数えてみたら、400タイトルになっていて、「えーっ、400個!ここまで来ちゃったか」と思って。でもよく考えてみたら、その位描いてると、引き出しがほぼ無数にあるから、適当に引き出し引っ張り出してつなげるとストーリーって作れちゃうの。だから、ドラえもんとかみたいにポンポンポンポン出来ちゃう。
犬木先生 うんうん。私もちょっと埋もれてるっていうか、初期の頃はみんな単行本になったけど、そこから先って単行本になってない作品が、山のようにあるんですよ。例えば、『毒使い蘭子』は、最後まで連載続けてくださいって言われたけど、私がもうちょっと疲れきっちゃって、ぶった切っちゃったぐらいだし。作品的に悪い作品では決してないんだけどね。












