#461 書きながら、綱渡り
あなたが、筆で書いているときが好き。
ドアを開ける前に、香りがした。
これは。
墨の匂いだった。
すぐドアを開けるのを、やめた。
香りの前に、気配が漂ってきていた。
あなたが、筆で字を書いている。
部屋の中の空気が、張り詰めている。
ドアの外からでも分かる。
私も、息を整える。
世界中で、最も邪魔をしてはいけない相手は、筆で字を書いている人だ。
筆で字を書く瞬間は綱渡りをしている状態だ。
周りのため息ひとつで、緊張の糸を切ってしまう。
ドアの外で、あなたの綱渡りの邪魔をしないように、じっとする。
息を、殺す。
筆で字を書いたことがない人には、この感覚が分からない。
習字をしていてよかったのは、字を覚えたことではない。
字を書く人の緊張状態を、壊してはいけないことを学んだことだ。
話しかけなくても、足音ひとつで、台無しにする。
前に、あなたが、書き直したことがあった。
あれば、私が空気を壊したことが原因だったことに気づいたのは、ずっと後になってからだった。
あなたは、綱渡りをしながら、リラックスしている。
そこが好き。
ぎりぎりの緊張と、悠々としたリラックスが同居している。
ドアの外で、息を殺しながら、あなたの空気を味わった。